杵築
あれこれ探訪 あれこれ探訪
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 Published On Dec 10, 2022

大分県杵築市(きつきし)は、県庁所在地の大分市から別府湾を挟んだ北方向にあり、国東半島の南端部に位置します。この地は大友氏の一族である木付氏が領知していました。何人も領知した後、細川氏の所領となりますが、転封の後、小笠原忠知が初代木付藩主となります。その後、杵築藩松平氏3万2000石の城下町として栄えました。

1593(文禄2)年、大友義統が豊臣秀吉の勘気に触れ除封となり、その一族の木付氏は滅びました。その後、前田玄以、宮部継潤、杉原長房、早川長政が入封し、1599(慶長4)年、細川忠興が、丹後国宮津12万石に加え、この地(6万石)を領知し、松井康之、有吉立行などを杵築城代として統治させました。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの功により、豊前一国を加増された細川忠興は本拠を中津城にし、この地木付も領地の一部となりました。細川家は藩庁を小倉城に移し小倉藩となり、1632(寛永9)年、忠興の子忠利が熊本藩に転封となりました。小倉には小笠原忠真が封じられ、木付には忠真の弟で旗本の小笠原忠知が4万石の大名となり、木付藩が成立しました。

1645(正保2)年、小笠原忠知は三河国吉田藩に転封となり、代わって松平英親が3万2000石で豊後国高田藩より同国木付藩に移封され、明治維新までこの地を領知しました。1712(正徳2)年3代重休の時、幕府より与えられた朱印状に「木付」が「杵築」と書き誤っていました。そこで、幕府に伺いを立てて、この地を杵築と表記するようになりました。杵築藩松平氏の能見松平家は、三河国松平氏の庶流に当たります。額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称しました。

杵築は平地の少ない領地であったため、新田開発や工芸作物、特にイ草の栽培を奨励しました。新田開発に三河より100余人の農民を呼び、俗に「三河新田」と呼ばれる農地を開墾しました。

享保の大飢饉以後、藩財政は悪化し、8代親賢は領内在住の学者・三浦梅園を登用し、財政再建に取り組みました。その進言により天明年間(1781ー89年)に藩校「学習館」を開きました。

1869(明治2)年、版籍奉還によって杵築知藩事に旧藩主の松平親貴が任じられ、行政区分としての杵築藩が置かれました。1871(明治4)年、廃藩置県により杵築県となり、のち、大分県に編入されました。能見松平家は華族に列し、1884(明治17)年に子爵となりました。

城下町の杵築は、杵築城が東にあり、城下町は西に広がっています。城下町は南北の高台に武家屋敷があり、その谷あいに商人の町があります。西から城下町を巡ってみます。市街地から離れた重光家を訪ねます。元外相重光葵(まもる)が幼少期に過ごした屋敷です。1887(明治20)年、重光葵は大野郡三重町(現豊後大野市)に士族の次男として生まれ、3歳の時に父の実家の杵築に移住しました。杵築高等小学校、旧制杵築中学校と幼少期のほとんどを杵築で過ごしました。努力家で蔵の2階で勉強に励んだという屋敷は「無迹庵(むせきあん)」と名付けられ、遺品や写真の数々が展示されています。

杵築市役所前の通りは南北の高台の間の谷あいの通りになります。市役所前の東側の「ひとつ屋の坂」を北台に上ります。二つ目の右手前角に佐野家があります。駐車場はあります。1603(慶長8)年、佐野家の始祖徳安は伊賀国(三重県)名張郡で誕生しました。 1615(元和元)年、大阪夏の陣後の騒乱を避け、豊後岡藩(竹田市竹田)の藩医であった伯父の佐野卓節(たくせつ)の許に身を寄せて医学を修めました。 その後杵築の中村へ移り、その医術の噂を聞いた藩主小笠原忠知は西町に宅地を与え、侍医として召し抱えました。以来約400年、佐野家は代々医家として今日に至っています。

佐野家の前を東に行きますと、杵築幼稚園があります。その前の杵築小学校の前に駐車場があります。駐車場と杵築幼稚園の間の通りを南に行くと、酢屋の坂があります。北台の酢屋の坂の先に南台の塩屋(志保屋)の坂が見えます。酢屋の坂の左角に大原邸があります。記録には相川東蔵(120石)が住み、東蔵が知行返上後、中根斎(家老新知350石)、岡三郎左衛門を経て、御用屋敷の桂花楼となった伝えられています。1832(天保3)年に大手広場にあった牡丹堂に桂花楼は移り、その後は御用屋敷として続いていたようです。 1868(明治元)年の絵図では、大原家の屋敷となっています。文政(1818-30年)以降、大原文蔵(200石)の屋敷になったようです。

大原邸は表に堂々たる長屋門を設け、左手には建物が取り付いていたようです。門から敷石伝いに真正面の式台玄関になります。屋根は寄棟造茅葺ですが、入母屋造の屋根を正面にみせた幅二間、奥行一間の式台を構え、当時の格式の高さを示しています。式台玄関には、八畳の次の間から鉤の手に10畳の座敷に通じます。これら接客部分と裏の居住部分が完全に分離される点も他の屋敷と異なります。中島をもつ池は大きく、杵築の武家屋敷では最も整った庭園を有することも、大原邸が普通の武家屋敷でなかったことを物語ります。

大原邸の東隣が能見邸です。平成20年から2年にわたり大規模改修が行われ、建築当初の姿になりました。改修に伴って、喫茶やお土産品など販売するコーナーも設けられました。建築様式などから幕末期のものと推測されます。敷地面積1440㎡、延べ床面積250㎡あり、玄関の間、上段の間を持つことから格式の高さがうかがえます。能見家は、杵築藩主である松平家の出身地である三河国能見を姓にし、5代藩主の9男が初代です。

能見邸の東、1軒おいた隣が磯矢邸です。その前に「藩校の門」があります。藩校学習館の「藩主御成門」が、藩校の跡地にある杵築小学校の校門になっています。磯矢邸には宝暦(1751-63年)の頃、安西源兵衛が住んでいました。1800年の寛政の大火後、御用屋敷「楽寿亭」の一部に組み込まれました。1824(文政7)年の廃止後、再び武家屋敷になり、明治初年には加藤与五右衛門(200石)の屋敷だったと分かりました。修復後、施設の一角に「杵築市栗原克実美術館」を設置し、千葉県在住の栗原克実画伯から寄贈された貴重な水墨画の数々を展示しています。

次は南台に向かいます。杵築市役所まで戻ります。市役所前を西に行き、鋭角に左折し、天神坂を上ります。右にカーブする手前を左折します。塩屋(志保屋)の坂の上に「きつき城下町資料館」があります。鉄筋コンクリート造り瓦葺き3階建の資料館と城と海と城下町を一望する杵築城展望台があります。

「きつき城下町資料館」は、常設展示として1階のロビーに天神まつりに使われている御所車、展示室には、「坂のある城下町」のテーマで、杵築の歴史年表や城下町復元ジオラマなどが展示されています。 2階の展示室には、「武士のくらしと文化」のテーマで、町役所日記や町人の文化に関する物を展示しています。3階展示室では、杵築歌舞伎の歴史と遺産に関する資料や漁業の歴史と漁具等が展示されています。

「きつき城下町資料館」の手前に中根邸があります。中根家は杵築藩の筆頭家老などの要職を務めた名家です。この建物は、幕末の1862(文久2)年、9代家老職の中根源右衛門が隠居所として建てたものです。元々中根家は、三河国碧海郡中根村(現・愛知県豊田市中根町)出身で、能見松平家に仕え、杵築藩の家老となった家柄です。北台武家屋敷の大原邸は、一時期、筆頭家老・中根斎(家老新知350石)の邸宅でした。中根邸は、隠居所らしく、茶室もあり、茶会も催されていたと伝えられています。

中根邸の前の通りを南に行き、次の十字路を左折すると一松邸(ひとつまつてい)はあります。駐車場があります。一松邸は、杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅で、昭和32年に杵築市に寄贈され、「一松会館」として市民の憩いの場として開放されていました。その後、市庁舎の移転に伴って、杵築城と海を望む現在地に移築されました。

一松氏は現在の豊後高田市にあたる美和村の出身。杵築藩の剣術や槍術の指南役であった一松家の家督を継ぐ養子として入り、その後永く法曹界で活躍、のち政界に転じ、第一次吉田内閣で逓信大臣、以降厚生、建設各大臣を歴任しました。その邸宅は、杉の柾目の一枚板を敷いた縁側、格天井(ごうてんじょう)を客人用の御手洗に施すなど、贅沢で洗練された趣が屋敷を包みます。戸袋を減らすために雨戸を直角に回転させる「回り戸」があります。

一松邸を出て、そのまま突き当りまで行き、そこを右折して北に向かい、南台に来た時の天神坂に出ますので、坂を下りて右折すれば市役所前に出ます。そのまま進めば杵築城に到りますが、その手前で左右に分かれる三差路になりますので、左は杵築城で、右に行きます。右手に南台の一松邸が見える左手に日本庭園を眺めることができる休憩所があります。休憩所は旧野上家跡地です。旧野上家は周防屋旅館でしたが、空き家となっていました。所有者から杵築市へ寄贈され、既存建築物の木材等を再利用することで整備されました。

三差路に戻り、杵築城に向かいます。1250(建長2)年、豊後を治めていた大友氏2代親秀の6男親重は、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に入り、地名の木付を姓としました。鴨川の竹ノ尾の高台に竹ノ尾城を築きました。1394(応永元)年木付氏4代頼直の時、現在地の城山に移転します。江戸時代、城の中心が北側の現在の杵築中学校敷地に広がり、平地移転が完了しました。木付城は別名を、台山城、臥牛城、勝山城といいます。

木付城は木付氏が17代にわたり治め、後、前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏と続き、1645(正保2)年に松平英親が3万2000石の城主となり明治まで松平氏が10代治めました。1712(正徳2)年3代藩主松平重休の時、「木付」から「杵築」となりました。天守は1608(慶長13)年に落雷で焼失しましたが、その後、再建されました。1615(慶長20)年一国一城令が発せられると、台山の主郭部は破却され、城郭機能は台山北麓の居館に移されました。

1632年(寛永9)年、細川忠利が熊本藩に移封となると、代わって小笠原忠知が入部しました。1645(正保2)年には松平英親が豊後高田藩より3万2000石で移封されました。松平氏のもとで平地への移転が完了し、台山の城郭は17世紀末までに廃止されました。現在の天守閣は1970(昭和45)年に建てられました。

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