長行
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 Published On Mar 22, 2024

北九州市小倉南区長行(おさゆき)は紫川中流の西岸に位置します。長行に該当する現在の町名は、高野・長尾・長行東・長行西・徳吉東・徳吉西・徳吉南・大字長行です。

1887(明治20)年、企救郡の高野・祇園町・長尾・能行(のうぎょう)村が合併して、長尾と能行の一字づつをとって長行(おさゆき)村ができました。1889(明治22)年、長行・辻三・合馬・徳吉・田代村が合併して西谷村となり、各村は西谷村の大字になりました。1941(昭和16)年西谷村は小倉市に併合され、大字はそのまま引き継がれました。

長行と紫川の対岸を東西に結ぶ徳力大橋から北の下流を見ると、左が西岸で、右が東岸です。下流の橋は砂原橋です。砂原橋の西岸の下流が高野で、上流はかっての祇園町です。東岸は南方で、その東が徳力です。

徳力大橋から上流を見ています。左の東岸が徳力で、右の西岸がかっての長尾です。能行は長尾の西になります。上流の橋は国道322号線に架かった桜橋です。桜橋の左の山が小嵐山です。

徳力大橋を西に行くと、南北に走る県道63号長行・田町線に突き当たります。その長尾1丁目交差点を右、北に行ったすぐ左手にスサノオ古墳があります。ここは祇園神社の境内です。スサノオ古墳は10m程の円墳です。

更に北に行きますと、右手に祇園神社があります。平安時代初期870(貞観12)年、疫病が流行ったため祇園社が勧請されました。祇園神社の境内に5基の円墳があります。祇園神社古墳群と呼びます。いずれも径10m以下の円墳です。

中世、この地が長野氏の支配下になると、その保護を受けましたが、長野氏が衰退すると、社殿は荒れ果てました。慶長年間(1596-1615)小倉城を築いた細川忠興が鷹狩に来られた折、戯れに杖で祠の扉を開きますと、忠興の両目が見えなくなりました。このため忠興が詫び、片目を開かせてもらえれば、祇園神社の社殿を造営しますと願いました。目は治り、忠興は月毎に参詣しました。

その後、祇園神社の分霊を片野村に祀りました。1617(元和3)年、忠興は片野村の祠と愛宕山(当時は不動山)の祠を勧請して、領内総鎮守として鋳物師町に祇園社を造営しました。この祇園社が祇園太鼓の八坂神社で、現在は城内にあります。忠興の目については、不動山の祠から鷹が出てきて蹴られたという話も伝わっています。

県道63号長行田町線を南に戻ります。長尾1丁目の次は長尾小学校入口の信号を通り過ぎて南に進むと、左手にクロガネモチの大木が見えます。この木の奥にはスタジイの大木が立っています。二つとも市の保存樹に指定されています。

二本の大木の下に大石があります。これは粉びき地蔵のドルメンと呼ばれています。奥にあるお堂の粉びき地蔵に因んだ名前です。3.25×1.85×0.25mの大きさです。ドルメンとは、支石の上に扁平な大石を載せた石造物で、下に石棺や甕棺を持つ弥生時代の墓です。しかし、この大石は箱式石棺墓の蓋の可能性も高いといわれています。

大石の奥に虚空蔵菩薩堂があります。祀られている虚空蔵菩薩に米や麦の粉を供えると、咳や喉の痛みが止まるといわれています。そのため、いつも粉にまみれて、粉びき地蔵、または粉仏様と呼ばれて信仰を集めています。

県道63号のすぐ先を右折する道があります。そこを進むと、長行小学校の校門前に出ます。長行小学校は、明治初期の私塾明誠塾を初めとして、一時は長尾小学校を称する時期もありましたが、長行村になると長行尋常小学校になりました。明治の終わり頃、この地に移転しました。

県道63号を北の長尾小学校入口の信号まで戻り、そこを左折して西に向かいます。この道路は県道269号合馬長行線で、次の長尾小学校前の信号を通り過ぎます。長尾小学校は、そこを右折して行くとあります。長尾小学校は、1981(昭和56)年に開校した、歴史の新しい小学校です。

長尾小学校前の信号の先、右手に八旗八幡宮の鳥居があります。八旗八幡宮の社殿は新しくなっています。八幡宮の丘陵南側斜面に3基の円墳があります。6世紀中頃から末の古墳で祇園神社古墳群の呼ばれます。1号墳は本殿南側の林の中にあり、2号墳は1号墳にすぐ奥の藪の中にあります。3号墳は神社北側の林の中にあります。

平安時代初期の貞観年間(859-77)に豊前国守により、八幡宮が徳力の里長尾の岡に勧請されました。徳力はこの周辺の首村でした。この社は宇佐・香春と同じ霊場で、参詣の人が絶えず、経を読んで納めたということで、ここを納経村と呼びました。これが能行(のうぎょう)村になったといわれています。

八旗八幡宮の前の県道269号を西に行き、長尾市民センター前の信号を過ぎて更に進みますと分かれ道になります。右側の坂を上るのが県道です。県道を進み、左手に入る道、車が1台通る程度の能行の集落の中の通りを南に進みます。左手に大木が立っていて、小さな祠があります。ここにはクスノキが2本、ムクノキが1本の市の保存樹があります。一番大きいのが貴船神社の大樟です。

そのまま能行の集落の中の通りを南に進みますと、右手に長行西2丁目公園があります。ここで8月16日の夜、8時頃から能行の盆踊が踊られます。盆踊歌の能行口説(のうぎょうくどき)は、この地で起きたお千代儀平の心中事件に題材をとっています。

長い叙事詩を同じ旋律で繰り返して歌うことを口説といいます。能行の盆踊は、櫓の上で叩く太鼓と音頭取りの口説歌に合わせて、右回りに踊ります。踊りは、左手を前に出し、右手を腰の辺りに持って行く、弓を引くような格好をするため「ゆみひき踊り」とも呼ばれます。能行の盆踊は市の無形民俗文化財に指定されています。

能行口説は、心中事件の翌年の1836(天保7)年、植波良右衛門為意が作詩し、瓦版として企救郡内、隣国筑前遠賀郡に伝えられました。七七調で、七段530節からなる能行口説は、第一段発端、第二段淀助恋慕の段、第三段儀平立聞の段、第四段お千代支度の段、第五段死出の道行きの段、第六段いろはづくしの書置の段、第七段最後の段の長編の歌物語になっています。

長行西2丁目公園の先を進みますと、道は下り坂になり、右手に山が見えます。標高123mの高野谷山(たかのたにやま)で、長尾城跡です。築造ははっきりしませんが、長尾城は、室町時代長尾小次郎景通(かげみち)の居城であったと伝えられています。戦国時代は長野氏の家臣高野三郎能行(よしゆき)の居城でした。高野の地名はこの城主の名からといわれ、能行もその名からとの説もあります。

坂を下りて、その先の坂を上ると左手に平屋の能行公民館があります。8月16日の夜、7時頃からお千代儀平の慰霊祭があり、その後、長行西2丁目公園で能行の盆踊が踊られます。公民館の先の右手に墓地への階段があります。昇って行くと、納骨堂があり、その右手の墓地の一角にお千代儀平の墓があります。

お千代は長州の萩、儀平は筑前田代村から能行村に養子に来ていました。二人はお互いを好きになりました。二人の仲を知るか知らずか、村の若者頭の淀助がお千代に言い寄りました。それから間もなく、お千代に婿を取る話が進みましたが、お千代の腹には儀平の子を宿していました。儀平の方も、義父が自分の娘と結婚させようとしていました。

今生では添い遂げることができず、死ぬ時は一緒だと二人はその日を約束しました。1835(天保6)年2月21日、お互いの家を出た二人は、八旗八幡宮の境内裏で、お千代19歳、儀平21歳の短い一生を閉じました。お墓には、正面に大道無学信士、釈円信女妙、左側面に俗名お千代儀平、右側面に天保六未二月廿一日と刻まれています。

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