板櫃川河口と櫓山荘
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 Published On Mar 20, 2023

杉田久女は結婚して小倉(現在の北九州市小倉北区)に来ます。2度の転居の後、板櫃川河口近くの日明(ひあがり)で、女流俳人の道を歩み出します。その後、橋本豊次郎の櫓山荘(ろざんそう)で妻多佳子と出会いました。ここで久女の指導を受けた橋本多佳子は、女流俳人して出発します。

小倉北区の北部を東西に、小倉駅の北側と南の市街地に国道199号が2本通っています。南の市街地側の国道199号を西に行きます。高架の都市高速の下を通り過ぎた先の交差点で、国道199号は左に進みますが、直進します。市道愛宕中井口1号線ですが、実はかっての旧電車通りです。板櫃川(いたびつがわ)に架かった和泉橋を渡り、右折して高架の新幹線の向こう側の細い道に入ります。先方に板櫃川に架かった平松橋が見えますが、その手前を左折します。三差路になった突き当りの家の前のレンガ塀に「杉田久女旧居」の解説板が掲げられています。

杉田久女(1890-1946)は、1909(明治42)年、杉田宇内(うない)と結婚し、小倉中学校(現在の小倉高校)の美術教師になった夫と共に小倉に来ます。最初小倉市鳥町2丁目(現在魚町2丁目)に間借りしますが、すぐに京町4丁目(京町2丁目)の薬種商の別棟の2階に間借りします。1914(大正3)年、企救郡板櫃村字日明2535番地(北九州市小倉北区日明1丁目7番)に移って来ました。それが上記の場所です。

久女が板櫃川河口近くで過ごした時代を描いた小説「河畔に棲みて」があります。杉田夫婦と数え6つと誕生間もない娘の4人家族の河畔の家に、久女の次兄赤堀月蟾(げっせん)がやって来ます。小説では別の名になっています。次兄は東京で失職し、職を求めて妹に所にやって来ました。小説では、次兄がやって来た秋から年が明けた数か月が描かれています。

1916(大正5)年、同居した月蟾から久女は俳句の手ほどきを受けます。翌年早々「ホトトギス」に投稿した句が掲載されます。その後も次々と載せられます。 1918(大正7)年、堺町111番地(紺屋町13-13)に引越します。

板櫃川河口付近の久女が居住した当時の様子を見てみます。現在、板櫃川は八幡東区の河内貯水池から流れ出て、関門海峡の西出入口に面する小倉北区日明(ひあがり)泊地に流れ込みます。1602(慶長7)年、細川忠興が小倉城の築城の際、東の紫川と西の板櫃川を天然の濠としました。板櫃川の当時の河道は、下到津から東側に向かい、JR九州小倉工場の西側から日豊線の西側沿いに流れ、大門の西で西に大きく曲がり、平松の新幹線付近で現在の流れになって、北の響灘に流れ込みました。現在の流れに付替えが竣工したのは、1934(昭和9)年10月でした。

鉄道の北側は海岸でした。1891(明治24)年4月、九州鉄道により黒崎・門司間の鉄道が開業しました。この時、黒崎・小倉間は、海岸ルートと違い内陸ルートでしたが、1902(明治35)年、海岸ルートが開業されました。

板櫃川河口の西岸は日明で、東岸は平松です。板櫃川が流れ込む響灘は遠浅で、戦後の高度成長期に海面が大規模に埋立てられ、埠頭が築かれ、日明泊地の西側は西港町、東側は東港と臨海工業団地になっています。日明は、海岸が干潮時に干潟になることから干上と書かれ、日明になったのは江戸時代末期からでした。

小倉城の築城の際、細川忠興は紫川河口の漁民を砂津川河口の長浜と、板櫃川河口の平松の東西に移住させました。平松は、もとは日明村の枝村の平松浦でした。1897(明治20)年、到津・日明・田町・菜園場・西原・金田村の6村が板櫃村として合併しました。板櫃村は更に合併を行い、1922(大正11)年板櫃町になり、1925(大正14)年小倉市に編入されました。

日明にはかって電車が通っていました。1912(明治45)年、九州電気軌道(九軌)により戸畑線は開業されました。前年の1911(明治44)年、北九州本線の門司・黒崎間が開通していました。戸畑線は大門から分岐し、若戸の渡し場の戸畑まででした。その後西鉄の営業路線となり、1986(昭和61)年、戸畑線は廃止されました。

新幹線の高架橋下の平松橋に行きます。平松橋の上流に和泉橋が架かっています。和泉橋の左上が小倉高校です。杉田宇内が奉職していた後身です。板櫃川は、高台にある小倉高校の右手、西側を流れますが、河道の付替え以前はこの橋の下流を左、東から弧を描いて流れて来ました。そのため、この当時和泉橋はありません。陸続きで、日明電停は現在の和泉橋の右手にありました。電車が板櫃川を渡るのはずって左手、東の大門の近くでした。

電停は旧宅から350~60m上流にありました。「河畔に棲みて」には、停留所は家の縁側から見え、町の方からの電車は5分間おきに菜畠の間を走って来たことや、電車を下りた人が川堤を歩いて来たことが書かれています。

平松橋の下流に極楽橋が架かっています。左手が日明で、右手は平松です。平松橋を渡って平松に入りますと、水神社があります。久女の小説には、「川向こうの水神の小祠」と書かれています。水神社の左横の道を北に進みます。戸建て住宅の間を通り、極楽橋に通じる道路を横切り、高層住宅が並ぶ所を進むとJR鹿児島本線の線路に突き当たります。久女は小説で平松のことを漁師町と書いています。線路の手前に、漁師達が大漁を祈願する蛭子神社があります。

蛭子神社右側に、背後の線路の下を北側の漁港に、人が一人歩いて行ける程度のガードがあります。西側に板櫃川が流れていて、漁船はそこの水路を通って、埋立地の間の日明泊地を通って関門海峡の西出入口に出ます。江戸時代、平松の漁民は小倉藩主へ魚を献上したり、御用船の漕ぎ手役を務め、小倉祇園には神輿で参加しました。壺を使った蛸壺漁が行われます。漁船からロープでつないだ蛸壺を流し、暗くて狭い所に入る習性を利用して蛸を獲ります。潮流の速い関門海峡のマダコは、岩にしがみつくため足は太く短く肉厚で、プリプリとして美味しいことが評判です。

極楽橋に通じる道路に戻り、西に向かって進み、極楽橋を渡ります。極楽橋から上流を眺めると、杉田久女旧居が見えます。江戸時代は勿論、久女が居住した時代も、板櫃川河口の架橋は極楽橋が唯一でした。極楽橋下流に架かるのは歩行者専用橋の明松橋です。その先はJR鹿児島本線の鉄橋で、その先がかっては海岸でした。

江戸時代、小倉藩の城下、紫川西岸北端の八百屋町に獄舎があり、死刑囚は裸馬に乗せられ、そこから大門を経由して、地獄橋を渡って刑場に向かいました。明治になって、地獄橋は極楽橋と呼ばれるようになりました。極楽橋は2009(平成21)年に架け替えられました。極楽橋を渡り、川沿いの道を行き、明松橋のたもとから左に入って行き、しばらく先に行くと平松墓地があります。

平松墓地の中、1787(天明7)年建立の銘がある無縁仏を祀る法界塔の上に、地蔵尊が置かれています。1820(文政3)年、儒者上原ら9名が処刑されました。平松の漁民は上原らを弔う地蔵尊をつくりました。この平松地蔵は首切り地蔵とも呼ばれ、刑場があった西を向いています。もう少し先に進むと、もう一つ墓地があります。その中に日明浜処刑諸霊塔があります。ここが刑場跡になります。

杉田久女旧居から直線で約1.5km北西に櫓山荘はありました。江戸時代の18世紀の初め、北九州沖に密貿易船が現れました。小倉藩は遠見番所を設け、監視を強めました。筑前と豊前の国境近くの海に突き出た堺鼻に、小倉藩の見張番所がありました。この堺鼻番所で、藍島遠見番所に掲げられた大旗を確認していました。堺鼻番所があった櫓山(やぐらやま)のすぐ西を境川が流れています。この川が豊前と筑前、小倉藩と福岡藩の国境でした。
藍島遠見番所については、「藍島」    • 藍島   をご覧ください。

1920(大正9)年、大阪の実業家橋本豊次郎が、櫓山に洋風3階建ての自宅「櫓山荘」を建てました。橋本豊次郎が29歳の時、18歳の多佳子と結婚しました。1922(大正11)年3月、櫓山荘で開かれた高浜虚子歓迎句会で、豊次郎の妻多佳子は、句会で出会った虚子門下の女流俳人、杉田久女と出会いました。その後、橋本多佳子は杉田久女の指導を受けることになります。ここが橋本多佳子の俳人としての出発の地になりました。

櫓山荘には、多くの著名人や文化人が訪れ、北九州にサロン文化の花が咲きました。橋本豊次郎は阿南哲朗らと共に児童文化の振興に努め、櫓山荘で林間学校を開いています。1929(昭和4)年、豊次郎の父の死去に伴い、橋本家は大阪の帝塚山に転居します。久女に句作の指導受けた橋本多佳子(1899-1963)は、大阪に戻った後は、山口誓子に師事します。誓子とともに「ホトトギス」を離れ、水原秋桜子の「馬酔木(あしび)」の同人になります。1937(昭和12)年、豊次郎は急逝します。その後1939(昭和14)年まで、櫓山荘は別荘として使用されます。

1931(昭和6)年、杉田久女は堺町111番地(紺屋町13-13)から富野菊ヶ丘560番地(上富野1丁目)に移りました。1932(昭和7)年、女性だけの「花衣」を創刊、主宰しましたが、5号で廃刊となりました。1934(昭和9)年ホトトギス同人となりますが、1936(昭和11)年虚子から同人を除名されました。

久女は女流俳人として才能を発揮しますが、毀誉褒貶の激しい人でした。その人生は波乱万丈でした。松本清張は短編「菊枕」で、久女を批判的に描いています。田辺聖子は「花衣ぬぐやまつわる・・・・・ わが愛の杉田久女」で、久女の一生を好意的に描いています。

田辺聖子はその著作の中で、「女流俳人の少なかった時代、ともすれば女流は低劣な好奇心にさらされて世間話の好餌となった。・・・・・一皮めくれば明治の男のつねで女に無遠慮な、野卑な噂好きだった。男女間の風評を好み、淫靡な流言を喜ぶという低次元の楽しみは、変化に乏しい地方都市ではことにも盛んだった」と、書いている。

1946(昭和21)年、杉田久女は大宰府で病死します。夫宇内は小倉を引き上げ、愛知県西加茂郡小原村に帰ります。1962(昭和37)年、杉田宇内は死去します。

櫓山の北側は海岸でした。大正時代まで、東の日明から中原、そして現在は日本製鉄九州製鉄所八幡地区(戸畑)になっている名護屋岬(戸畑区)まで、白砂青松の海岸でした。大正から昭和の戦後まで海岸線は埋め立てられ、工業用地となりました。櫓山荘は橋本家の手を離れ、建物も山上につくられた庭園も今はありません。建物跡や庭園跡が整備され、2006(平成18)年、櫓山荘公園として施設整備されました。

櫓山荘公園の西側、小倉北区と戸畑区境を流れる境川河口、国道199号線の境川橋の東側たもとから南に入って行くと、右手の川の側に国境石が立っています。福岡藩によって建てられたものですが、もとの国境石は、八幡東区東田のいのちのたび博物館に保管・展示されています。

櫓山の北側に駐車場があり、櫓山荘公園の北側の入口があります。櫓山荘が建てられた頃、この辺りは海岸で、海水浴も行われていたようです。櫓山荘は、強い北西の季節風を小山が防いでくれるように建っていました。入って来たのが東からで、背後の小山が西側で、建物から小山の頂上にかけて、回遊式庭園や広場がつくられました。

2003(平成15)年に建てられた櫓山荘跡の石碑があります。右に杉田久女、左に橋本多佳子の句が刻まれています。両方とも短冊に書かれた自筆の筆跡です。
谺(こだま)して山時鳥(ほととぎす)ほしいまま 久女
  昭和6年 東京日日、大阪日日の新名勝俳句入選作 山岳の部英彦山
乳母車夏の怒涛によこむきに 多佳子
  昭和26年刊「紅糸」に載る

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