津和野
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 Published On Oct 7, 2023

山間の小さな盆地に広がる街並みの津和野は、島根県南西部(鹿足郡津和野町)にあり、山陰の小京都と呼ばれる風情のある城下町です。津和野駅はSLやまぐち号の終着駅です。文豪森鷗外、明治の啓蒙思想家西周(にしあまね)や画家・絵本作家安野光雅(あんのみつまさ)の出身地としても知られています。

国道9号で津和野に近づきますと、左折の案内があります。下り坂を下りて行きますと、県道13号に入ります。右折して点滅信号の手前、信号のない交差点を左折しますと橋があります。

橋のたもとの左側に、津和野城の馬場先櫓があります。そこから川沿いを北に行くと藩庁正門跡を見ることができます。津和野城の東側に津和野川が流れています。その西岸の麓に津和野高校がありますが、津和野藩邸の跡地です。馬場先櫓の南側に津和野高校の校舎があります。馬場先櫓の先に行くと物見櫓があります。

津和野高校の正門付近に太皷谷稲成神社の案内があり、右折の道がありますので右折します。上り詰めた先に、太皷谷稲成神社はあります。全国で唯一稲成と表記します。1773(安永2)年、津和野藩主亀井矩貞(のりさだ)が領民安寧のため、京都の伏見稲荷大社から勧請し、津和野城の鬼門に当たる太皷櫓が建つ城内の一角、太鼓谷の峰に創建しました。伏見稲荷大社・笠間稲荷神社・竹駒神社・祐徳稲荷神社と共に日本五大稲荷と呼ばれています。

太皷谷稲成神社から南に戻る下り坂の右手に、津和野町城跡観光リフトがあります。その左手に駐車場があります。リフトに乗って西に上り、そこから徒歩で南に進むと津和野城跡に着きます。そこからは津和野の街が一望できます。津和野城は津和野盆地南西部の標高367mの霊亀山に築かれた山城です。築城時から戦国時代までは三本松城(もしくは一本松城)と呼ばれ、史跡に指定されています。

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いにおいて西軍が敗れ、総大将の毛利輝元は防長2か国に押し込められました。毛利氏に従う城主の吉見氏も津和野を退去し、萩に移住しました。代わって坂崎直盛が入城し、津和野城を石垣を多用した近世城郭へと大改修し、出丸や天守を築きました。

1615(元和元)年大坂夏の陣、大坂城落城の際、坂崎直盛は家康の孫娘で豊臣秀頼の正室千姫を大坂城から救出しました。この後、千姫を巡って、直盛と幕府は対立することになります。1616(元和2)年、本多忠政の嫡男忠刻(ただとき)との婚姻の際、直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪するとの計画が発覚しました。幕府方は江戸の坂崎家の屋敷を包囲します。その際、死因には諸説ありますが、直盛は死去しました。この騒動は千姫事件と呼ばれ、その結果、坂崎家は断絶しました。

1617(元和3)年、因幡国鹿野藩(鳥取県鳥取市鹿野町)より4万3千石で亀井政矩(まさのり)が入城し、以後明治維新まで津和野城は亀井氏の居城になりました。麓に津和野藩邸や外堀が設けられ、城下町が整備されました。1686(貞享3)年、落雷で火災が発生し、天守閣は焼失しました。その後再建されることはありませんでした。

津和野城跡から戻ります。津和野川を渡り、県道13号を北に行きます。津和野川の津和野大橋の北側が津和野の中心地になります。この付近は訪ねる先が多数ありますので、車は大橋の先で駐車場を探すのが賢明です。大橋の先、県道13号を北に行くと津和野駅があります。

津和野大橋の南を東に行けば郷土館があります。津和野大橋の北を左、西に行けば弥栄神社があります。祇園祭りの7月20日と27日に行われるのが、弥栄神社に伝わる古典芸能神事が鷺舞(さぎまい)です。

津和野大橋の北を右手に行くと殿町通りです。石畳の殿町通りには津和野藩家老多胡家表門、藩校養老館、津和野カトリック教会などがあります。養老館の土塀に面した通りの掘割には多数の鯉が泳いでいます。掘割は坂崎直盛が城下町をつくった時に、用水路として掘らせたものといわれています。

津和野カトリック教会は、1931(昭和6)年に建てられた本格的なゴシック建築の教会で、乙女峠でのキリシタン弾圧を伝える乙女峠展示室があります。殿町通りの先は本町通りになります。

津和野駅の前に、津和野出身の画家で、文化功労者の安野光雅の作品が展示されている安野光雅美術館があります。1926(大正15)年生まれで、生家は津和野町の旅館でした。戦後、小学校の教員を務め、のち山口師範学校(現・山口大学教育学部)研究科を修了し、美術教員として上京し、約10年間教師を務めます。35歳で教師を辞して絵描きとして自立しました。

1864(元治元)年、長崎の南山手居留地に大浦天主堂が建てられました。翌1865(元治2)年3月17日、浦上の村民数名が訪れ、ベルナール・プティジャン神父に「サンタ・マリアの御像はどこ?」と聞きました。信徒発見の瞬間でした。浦上のみならず、外海、五島(以上長崎県)、天草(熊本県)、筑後今村(福岡県大刀洗町)などに住む信徒達の指導者が神父の元を訪れ、神父は密かに彼らを指導しました。

1867(慶応3)年、浦上の信徒達が仏式の葬儀を拒否し、庄屋はこの件を長崎奉行に届けました。長崎奉行の報告を受けた幕府は、信徒ら68人を一斉に捕縛しました。これが浦上四番崩れの始まりでした。過去の一から三番崩れは密告からの迫害だったことと違い、四番崩れは自ら信仰を表明することから始まりました。捕縛された信徒達は激しい拷問を受けました。これに対し、諸外国の外交団は即座に抗議しました。1867(慶応3)年10月14日、大政奉還で江戸幕府は瓦解します。

1868(慶応4)年3月15日、明治新政府下でもキリスト教の禁止が再確認されました。明治改元は同年9月8日です。浦上の信徒達を呼び出して説得しましたが、改宗の意思はありませんでした。これを受けて信徒の流罪が決められました。これに対し、諸外国の外交団は激しく抗議しました。明治政府は信徒の中心人物114名を捕縛し、津和野、萩、福山へ移送しました。

津和野には28人が送られました。乙女峠の光琳寺に収容されました。彼らには激しい拷問が待っていました。1870(明治3)年、第二次流罪が行われ、津和野には新たに125名が送られました。改宗を迫り水責め、氷責め、火責め、三尺牢など過酷で陰惨な拷問が行われました。信徒達153名が帰郷するまで、殉教者37名を失いました。

明治政府は各国から棄教政策を激しく非難されました。1873(明治6)年2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、浦上の信徒達は釈放されました。流罪地21か所、流罪者3414名、死者664名でした。生き残った信徒達は、1880(明治13)年、浦上の庄屋屋敷跡に仮会堂を建て、1895(明治28)年浦上天主堂の建設を始め、1914(大正3)年完成しました。しかし、1945(昭和20)年浦上天主堂は被爆し、破壊されますが、のち再建されました。

悲惨な潜伏キリシタンの歴史については、「潜伏キリシタンの歴史」    • 潜伏キリシタンの歴史   をご覧ください。

津和野の殉教の地、乙女峠を特定したのはフランス人のビリオン神父(1843-1932)でした。1868(明治元)年船で長崎に到着しました。浦上四番崩れで、信者達が各地へ流刑されていくのを見送りました。その後、神戸・京都・山口に赴任しました。萩に転任し、布教活動の傍ら、キリシタンの史跡を調査研究しました。萩の後、神戸・奈良を経て、1932(昭和7)年大阪の川口天主堂で亡くなりました。

乙女峠の光琳寺の跡地に、1951(昭和26)年聖母マリアと殉教者追悼のため、津和野カトリック教会のドイツ人のパウロ・ネーベル神父(後、日本に帰化して岡崎祐次郎と名乗る)によって、乙女峠記念聖堂が建立されました。なお、この地はかって城主の娘が不慮の死によって葬られた背後の山が乙女山と呼ばれていました。津和野城址から乙女山に尾根が続き、その鞍部を乙女峠と呼びました。その名称は、長崎で被爆し、1951(昭和26)年死去した長崎大学教授、医学博士で随筆家であった永井隆の絶筆、津和野の殉教者を描いた「乙女峠」によって世に知られました。

津和野駅の西側、西に延びる谷筋に乙女峠があります。その南、西に延びる谷筋の先に永明寺があります。永明寺は茅葺の本堂と庭園を見ることができます。境内に森鷗外の墓があります。永明寺の横を奥に進むと、寺によって天保の大飢饉の死者を埋葬した場所の蕪坂千人塚があり、「南無地蔵大菩薩」の碑が建てられています。乙女峠の殉教者の遺骨はこのあたりに一旦埋葬されましたが、1891(明治24)年、ビリオン神父と浦上の信徒によって集められ、改めて こ こに埋葬され、殉教者の墓「至福の碑」を建てました。

津和野大橋から県道13号線を南下します。津和野警察署の先に森鷗外記念館があります。記念館に隣接して、鷗外が幼少期を過ごした国指定史跡の森鷗外旧宅があります。森鷗外(1862-1922)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(最高位軍医総監=中将相当に昇進)、医学博士、文学博士です。本名は森林太郎で、石見国津和野藩の典医の家に生まれました。

森鷗外は東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年過ごしました。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表し、同人達と文芸雑誌「しがらみ草紙」を創刊して文筆活動に入りました。その後、日清戦争出征や、小倉第4師団軍医部長としての転勤などがあります。「スバル」創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表し、乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」などを執筆しました。晩年は、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長などを歴任しました。

森鷗外記念館からは、津和野川をはさんだ西岸に西周旧居があります。西周が21歳まで暮らした家で、国指定史跡になっています。西周(にしあまね、1829-1897)は、江戸時代後期から明治時代初期の日本の哲学者、教育家、啓蒙思想家、幕臣、官僚で獨逸学協会学校 (現・獨協中学校・高等学校) 初代校長、貴族院議員、男爵でした。津和野藩の典医の家柄で、祖父が森鷗外の曽祖父に当たる姻戚関係にあります。

西周は漢学の素養を身につけ、藩校・養老館で蘭学を学び、蕃書調所に出仕し、哲学ほか西欧の学問を研究します。1862(文久2)年オランダに留学し、1865(慶応元)年に帰国した後、徳川慶喜の側近として活動します。1870(明治3)年には乞われて明治政府に出仕し、1873(明治6)年には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙「明六雑誌」を発行します。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳、紹介など哲学の基礎を築くことに尽くしました。

津和野駅はJR西日本山口線の駅で、1979(昭和54)年以来、新山口駅(当時は小郡駅)の間でSLやまぐち号が運行されています。津和野駅の駐車場には、1975(昭和50)年まで山口線を走っていたD51が保存されています。SLやまぐち号はC57の1号機、D51の200号機で運行されます。両機が修繕中は、ディーゼル機関車が牽引するDLやまぐち号が運行されます。

県道13号の上をJR山口線を通る所が交差点になっています。そこからJR山口線沿いに県道226号が通っています。県道からSLやまぐち号を見ることができますので、「SLやまぐち号」で運行日時を検索して、列車を待ちます。津和野駅着より少し前に通過します。見学が終えたら、坂道を上って行きます。国道9号線の側に太皷谷稲成神社の大鳥居が建っています。

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