苅田町
あれこれ探訪 あれこれ探訪
315 subscribers
1,430 views
7

 Published On Jan 10, 2023

福岡県京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町は、西は平尾台に、東は周防灘に面しています。北から西にかけては北九州市小倉南区、南は行橋市に接します。苅田は古くから賀田・神田とも書かれ、かたとも呼ばれ、潟(遠浅の海岸)に由来するようです。

苅田町の等覚寺地区の白山多賀神社で行われる、山伏の祭礼の等覚寺の松会(とかくじのまつえ)については、「等覚寺の松会」    • 等覚寺の松会   をご覧ください。

かっては行橋市を含めて京都(みやこ)郡で、景行天皇が筑紫に到り、豊前長峡県(ながおのあがた、現在の行橋市)に行宮を営んだので、みやこと呼ばれるようなったといわれています。苅田町には縄文時代の遺跡をはじめ、弥生時代の遺跡が数多くあり、古くから開けた土地であったことが分ります。古墳時代に入ると、石塚山古墳などの大きな前方後円墳が出現し、周壕が完全に残っている御所山古墳からは有力な首長がこの地にいたと思われます。

苅田町北東部の半島の松山に、奈良時代の740(天平12)年に乱を起こした藤原広嗣によって松山城は築かれたと伝えられています。松山城は平安時代後期の古代末から中世にかけて争乱の場となり、次々と城主が替わりました。江戸時代に入ってすぐの1606(慶長11)年に廃城になりました。苅田町域には、平安時代には宇原荘、鎌倉時代には苅田荘、南北朝時代には片島荘の荘園が成立しています。

江戸時代には現在の国道10号線に並行するように中津街道が通っていました。遠浅の周防灘の海岸では干拓も行われました。1895(明治28)年九州鉄道によって小倉・行事(現在行橋市)間の鉄道が開通しました。これが日豊本線になっていきます。

大正時代になると石灰石が採掘され、セメント工場が開業しました。昭和に入ると石灰石・セメント積み出しのための築港工事が行われ、戦後工業都市化が始まり、近年は自動車産業が進出して、操業しています。2006(平成18)年3月、周防灘沖に新しい北九州空港が開港しました。空港の北側が北九州市域で、南側が苅田町域です。

苅田町に伝わる祭りが二つあります。一つは等覚寺の松会で、もう一つは苅田山笠です。10月の第1日曜日、宇原神社の神幸祭で、神輿が宇原神社から御旅所(浮殿)がある苅田町役場駐車場の広場にやって来ます。山笠14基が各所から集まって来ます。祭礼が終わり、再び宇原神社に戻るのが還幸祭です。神輿が戻って行くと、山笠は広場を練り回します。更に山笠同士の激しいぶつかり合いがあります。いわゆる喧嘩山笠が始まります。

国道10号を南下して北九州市小倉南区朽網を通り過ぎ、苅田町に入った所に松山入口交差点があります。その手前の左手の人家の先に郡境界石が立っています。この前を旧中津街道は通っていました。石柱の二面に、「従是西企救郡」「従是東京都郡」と刻まれていて、ここが企救郡(現在の北九州市の東半分に相当)と京都郡の境であったことを示しています。この場所は京都郡苅田町若久町で、北九州市小倉南区から数m苅田町に入った所です。

松山入口交差点を高速道路の東九州道苅田北九州空港ICから空港に向かう高架道、県道245号が横断しています。松山入口交差点を左折し、高架道と合流する付近で、左手に雨窪(あまくぼ)古墳の案内があります。歩道から草むらの中に伸びている道に入って行きますと、すぐに円墳の雨窪古墳があります。6世紀後半の横穴式石室の円墳です。この付近には古窯跡がありますので、土器を作った人達の首長の墓と思われます。

県道245号を先に進み、苅田臨空産業団地交差点を右折し、突き当りを左折します。眼前に松山城跡の松山が見えます。最初の三差路右折します。住宅地の中の十字路を左折します。住宅地の中を進み、突き当りを左折します。その先右にカーブする所の左手に、松山城跡の案内があります。そこから坂を登り、あぜ道を左手に入って行くと、山道になります。標高127.9mの松山城跡の山頂まで、20分程度です。

松山城は古い城で、奈良時代740(天平12)年、乱を起こした藤原広嗣によって築かれたと伝えられています。江戸時代に入ってすぐの1606(慶長11)年に廃城になりました。周防灘に突き出した半島の山頂から山腹にかけて築かれた山城で、大内氏、長野氏、大友氏の争乱の場となり、何度も戦乱にあい、何度も城主が代わっています。

国道10号苅田駅入口交差点を右折し、駅前通りを進むと日豊線JR苅田駅に突き当たります。2006(平成18)年3月北九州空港の開港を控え、橋上駅として整備され、駅舎の新築工事が行われ、同年4月完成しました。JR苅田駅東口と西口は連絡路で通じています。

現在の日豊線は、1895(明治28)年4月九州鉄道が小倉・行事(現在行橋市)間を開業したのが始まりです。開業時の途中駅は城野、曽根、苅田でした。駅名の読みは当初は「かんだ」で、途中セメント積出駅で有名になると、字で読みが分らないとか、東京の神田と間違いやすいとのことで「かりた」と呼ばれました。地元の大反対で、1959(昭和34)年「かんだ」に戻りました。

JR苅田駅東口を東に進み、国道10号に出て右折します。国道10号を南下し、神田交番前交差点の先に、石灰石採掘場からセメント工場へ石灰石を運ぶベルトコンベアーの施設が上方にあり、その下を通ります。そのすぐ次の信号がある交差点を右折すると、苅田町役場前に着きます。苅田町役場の駐車場は苅田山笠の会場になります。駐車場横の社は、浮殿神社です。

九州電力苅田発電所の沖に神ノ島があります。宇原神社の由緒によると、神社の祭神である彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)はいわゆる海幸・山幸の山幸ですが、海神の宮に行き、そこで豊玉姫(とよたまひめ)と結婚します。海神の宮から還り、日向の神田に着きます。その時の船が神ノ島になったといわれています。

浮殿神社は石塚山古墳の上にあります。浮殿は宇原神社の御旅所になりますが、宇原神社が遷座される前の場所といわれています。宇原神社の由緒によると、彦火々出見尊と豊玉姫が上陸した時、豊玉姫は懐妊されていて、産屋を造っていましたが屋根を葺き終わらないうちに御子が誕生しました。そのため、御子は鵜萱草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と名付けられました。その場所が浮殿です。石山塚古墳の東側の前方部には浮殿神社があり、西側の後円部の周りは森になっています。

石山塚古墳は4世紀初め築造された、全長約110mの九州で最大・最古級の畿内型前方後円墳で、国指定史跡です。石山塚古墳の後円部は高さ23m、径約70mで、二段造りになっていて、墳丘部は石が葺かれています。その下に竪穴式石棺がありますが、江戸時代開口されています。現存する出土品の三角縁神獣鏡7面、素環頭太刀片、銅鏃は宇原神社の社宝で、国の重要文化財に指定されています。この地方の権力者であった被葬者は、畿内の大和王権とは服属の関係にありました。副葬品の三角縁神獣鏡は大和王権から授けられたものと思われます。

苅田町役場前を南に行き、苅田郵便局の先を右折します。山手に上って行きます。南原交差点を過ぎ、高架の東九州自動車道の下を通ります。県道64号苅田採銅所線です。右手に殿川ダムが見えてきました。殿川ダムは1966(昭和41)年に完成したアースダムで、工場用水に供するダムとして、福岡県によって建設されました。堰堤部に車を乗り入れることができます。左の高い山が標高419mの高城山(たかじょうさん)です。

殿川ダムの堰堤から右手、貯水池の北側山腹に石灰岩の洞窟が見えます。その中にお堂があり、内尾薬師と呼ばれています。殿川ダムの堰堤を対岸に進みます。貯水池沿いの道を進むと、内尾山相円寺の石碑が立っています。内尾薬師はこのお寺の内になります。急な石段を昇って行きますと、洞窟が一つあり、洞内に石仏が安置されています。もう少し昇って行きますと、堰堤から見えた洞窟があり、洞内にお堂が建っています。

堂内に薬師如来座像が安置されています。お堂の扉を開けて内尾薬師と呼ばれる仏様を拝することができますが、撮影はできません。薬師如来座像は平安末期から鎌倉時代にかけて造られたもので、寄木造で3m近くあり、国東の仏教文化の系統に入ります。この仏像は、現在はない壇林寺の本尊でした。その壇林寺は、これから訪ねる宇原神社付近にあったと推定されます。その辺りは、平安時代に成立した宇佐弥勒寺領の宇原荘内の大寺院でした。壇林寺は、室町時代の大内氏と大友氏の戦乱にあって焼失したと思われます。

高架の東九州自動車道の先の南原交差点を左折し、県道254号須磨園南原曽根線を北に進みます。馬場交差点に宇原神社の鳥居が立っています。ここは苅田町役場の約600m北西の位置になります。宇原神社の秋祭りが神幸祭で、その祭礼の山車が苅田山笠です。社伝によれば、浮殿からこの地に遷座されたのは平安時代の1090(寛治4)年といわれています。祭神は、彦火々出見尊、豊玉姫とその子の鵜萱草葺不合尊です。

県道254号南原交差点まで戻り、そこを左折して国道10号殿川ダム入口交差点に戻り、そこを右折して南に向かいます。かって日豊線から分岐して苅田港に向かう貨物専用線がありました。その線路跡を過ぎた二つ目の角を左折し、すぐに狭い十字路がありますので、右折して坂を上った左側に番塚古墳はあります。5世紀末の前方後円墳で、わずかに後円部を残すだけになっています。1959(昭和34)年、宅地造成中に番塚古墳の横穴式石室が発見されました。海岸近くの丘陵地に造られ、全長は50mと推定されます。

古墳の前を先に進むと、道は右に曲がって、すぐに国道10号線に出ます。国道10号を南に進むと、間もなく左側に林があります。御所山古墳です。林の手前を左に入って行きます。その先の通りが旧中津街道筋です。御所山古墳は東の旧中津街道筋と西の国道10号の間にあります。旧中津街道筋を南に行くと、右手に白庭神社の鳥居があります。その脇に駐車できる場所があります。国道10号から旧中津街道筋と時計回りに歩くと、周壕を見ることができます。

南が前方部で北が後円部です。5世紀後半築造された前方後円墳です。鳥居をくぐって行くと、道から見えなかった東側の周壕が見えます。もうひとつ鳥居をくぐって行くと、白庭神社の拝殿があります。御所山古墳の前方部に当たります。拝殿の奥を進むと、後円部に白庭神社の本殿があります。御所山古墳は、横穴式石室を有する、全長119mの九州で最大級の前方後円墳で、前方部82m、後円部の径73mで、国指定の史跡になっています。被葬者は県主(あがたぬし)クラスのこの地の権力者と思われます。

show more

Share/Embed