曽根
あれこれ探訪 あれこれ探訪
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 Published On Feb 28, 2023

北九州市小倉南区曽根は周防灘に注ぐ竹馬川(ちくまがわ)の右岸に位置し、海辺に面していたので、磯根に由来する地名といわれています。北は竹馬川、南は朽網に接し、JR九州日豊本線と県道25号門司行橋線が南北に並行しますが、そこから東の曽根干潟までの曽根新田と広い範囲です。

江戸時代より1897(明治20)年まで、東から上曽根・中曽根・下曽根の三村がありました。「元禄国絵」には、曽根村、中曽根村、下曽根村の三村が独立して書かれていますが、幕府には曽根村一村として書き上げられていました。曽根の海浜では製塩がおこなわれていました。1615(元和元)年、曽根浜に千間土手が完成し、土手内は新田が開発されました。下曽根には中津街道の宿場がありました。

竹馬川に唐戸橋が架橋されると、その東たもとに置かれた下曽根宿は、交通・経済の要所として、塩の集荷所として繁栄しました。千間土手は往還(中津街道)として使われました。千間土手の海側は、大規模な干拓が行われました。小倉藩家老に就任した犬甘兵庫知寛(いぬかいひょうごともひろ)は、藩政改革のため新田開発を計画しました。1795(寛政6)年、犬甘は曽根浜の干拓を元大里村庄屋石原宗祐(いしはらそうゆう)に命じ、1803(享和3)年、曽根新田は完成しました。

1897(明治20)年、上曽根・中曽根・下曽根の三村が合併して曽根村となりました。1899(明治22)年、曽根村と田原村が合併して曽根村になり、朽網村と曽根新田村が合併して朽網村になりました。1907(明治40)年、曽根村は朽網村・芝津村・霧岳村を合併しました。1934(昭和9)年曽根町となり、1942(昭和17)年、小倉市に合併されました。

曽根は農業主体の地域でした。1895(明治28)年4月、九州鉄道は小倉から分岐させ、小倉・行事(現在行橋市)間を開業しました。現在の日豊本線です。途中の駅は城野・曽根・苅田駅でした。1907(明治40)年、九州鉄道は国有化されました。曽根製塩は良質でしたが、1917(大正6)年頃、塩田は廃止されました。戦時中、北九州は重要な防空地域で、航空基地増強のため、1943(昭和18)年、水田・塩田を買収して陸軍飛行隊の曽根飛行場の建設に着工しました。

1945(昭和20)年、日豊本線の曽根駅は下曽根駅と改称されました。山陽本線に曽根駅があり、1902(明治35)年に改称される以前は、1888(明治21)年に開業した阿弥陀駅でした。1945(昭和20)年、曽根飛行場は終戦により連合軍に接収されて米国陸軍の管理となりました。1957(昭和32)年に公共用飛行場の告示がなされ、1500m滑走路の小倉飛行場が誕生し、翌1958(昭和33)年、第二種空港の指定がありました。昭和30年代、小倉飛行場の北側の塩田跡を取得して工場団地を造成し、北九州工業団地が発足します。北九州市が発足した10年後の1973(昭和48)年、小倉飛行場は北九州空港と名称を変えました。

曽根は農業地帯でしたが、戦後都市化が進み、竹馬川河口には工場団地ができ、その南には空港があり、駅周辺は商業地として賑わっていました。下曽根駅の北側を国道10号線が通っていましたが、その南側を国道10号曽根バイパスが通る計画があり、北側だけの出入口の下曽根駅は、1981(昭和56)年、南北から出入りできる橋上駅に建替えられました。1985(昭和60)年、曽根バイパスは完成し、1995(平成7)年、駅の南口前にショッピングモールが開店しました。

北九州空港は、滑走路がわずか1500mしかなく、ジェット機が離着陸できず、東端が周防灘に面し、西は皿倉山、南は貫山、北は足立山と三方を山に囲まれて、局所的に濃霧が発生するなど不便な空港で、1983(昭和58)年、定期便は廃止されていました。曽根干潟沖の周防灘に海上空港が建設されることが決定し、そのつなぎとして1988(昭和63)年、定期便が再開され、2006(平成18)年、新空港が開港されるまで運用されました。

かって国道10号は、曽根の西側の葛原を通って曽根に入り、下曽根駅の北側を通って南下し、朽網を通り京都郡苅田町に到りました。曽根バイパスが完成すると、国道10号は東側の葛原を通らず、手前の湯川から南に行き、曽根バイパスに入って東に行き、曽根を通らずその南側を通って朽網に到ります。

小倉方面から国道10号を南下します。湯川の安部山入口交差点を右折して曽根バイパスに向かうのが国道10号ですが、直進して旧国道、現在は市道湯川飛行場線で葛原を通ります。中津街道はこの市道の北側を並行して通っています。

市道湯川飛行場線を東に行くと、高架の九州自動車道の下を過ぎた先の葛原東1丁目交差点で3つの道路に分かれます。直進は市道湯川飛行場線です。先方に日豊本線の跨線橋が見えます。その下の交差点が寺迫口北です。2つ目は右折する旧国道筋、現在は県道25号門司行橋線で、跨線橋下の交差点は寺迫口(てらさこぐち)です。3つ目は右折した2つ目のすぐ先で左折する中津街道です。

3つの通りはすぐ竹馬川(ちくまがわ)に到ります。下流の唐戸大橋には市道湯川飛行場線が通っています。唐戸大橋の上流には、中津街道が通る唐戸橋が見えます。その上流は旧国道筋で、現在は県道25号が通る栄橋が架かっています。古代には、竹馬川の上流蜷田(になた)付近まで海辺であったといわれています。竹馬川を上る潮を防ぐため、唐戸(水門のこと)が設けられました。3つの橋を通る道は、東に行った中曽根新町で県道25号に合流します。

市道湯川飛行場線は北九州空港跡地の南を通ります。唐戸大橋の先を東に行きますと、九州労災病院前交差点がありますので、左折しますと左手に九州労災病院があります。2006(平成18)年3月15日に閉港した旧北九州空港の跡地の西側に当たります。2007(平成19)年、移転新築工事に着工し、2011(平成23)年に新病院は開院し、小倉南区葛原から移転して来ました。

九州労災病院の先を右折しますと、進出企業が左右に見られます。空港跡地は、自動車産業を中心にした新産業団地とし、南北に遮断されていた道路交通を整備し、産業団地と曽根干潟の間の緩衝帯として機能を果たします。空港跡地の北側、竹馬川沿いには昭和30年代に発足した北九州工業団地や九州運輸局の北九州自動車検査登録事務所があります。

北九州工業団地の中を通る市道曽根下曽根1号線から南の市道湯川飛行場線に向かいます。中曽根東4丁目交差点で市道湯川飛行場線に合流します。市道湯川飛行場線を中曽根東4丁目交差点で南に向かいますと市道飛行場南線になります。そのまま東に向かいますと、市道湯川飛行場線の突き当りは曽根海浜公園です。

中曽根東4丁目交差点で南に向かい、市道飛行場南線を進みますと、跨線橋が架かっています。橋を渡って進みますと国道10号曽根バイパスに出ます。橋を渡らず横を進みますと、突き当りで、県道25号と合流します。県道25号はその北側の曽根新町交差点で中津街道と合流しています。跨線橋を渡って、国道10号曽根バイパスに出ます。貫交差点を右折して、国道10号曽根バイパスを北に向かい、下曽根駅前交差点を右折します。

国道10号曽根バイパスと下曽根駅の間は、多くの商業施設が立ち並んでいます。下曽根駅の南口前にはショッピングモールが立地しています。駅の乗降は南北からできるように、1981(昭和56)年、駅舎は建替えられ、橋上駅になりました。下曽根駅は階上に改札口があり、その前は公共通路になっていて、階段・エスカレータ・エレベータで昇れます。下曽根駅の北口前には県道25号が通っています。かっては国道10号線で、駅の北側が表口でした。

下曽根駅から歩いて、周辺を訪ねてみます。駅の北側に唐戸橋があります。唐戸橋は享保年間(1716-36)に架けられました。小倉城下と中津城下を結ぶ中津街道は、この橋を通っていました。唐戸橋の東側が中津街道の下曽根宿の跡です。街道筋の右手に浄土宗西迎院(さいこういん)があります。この付近に藩主が宿泊・休憩する御茶屋がありました。下曽根宿の次は苅田宿になります。

西迎院の先に右折の道があります。中津街道は直進ですが、右折して進みます。3つ目の十字路の左手角に浄土宗慈恩寺があります。門の右手に判行寺(はんぎょうじ)であったとの石碑が立っています。藩政時代、宗門改めで踏絵が行われた寺院です。企救郡では、主に大里の西生寺(さいしょうじ)で、毎年3月に踏絵が行われましたが、当寺や他寺でも行われたようです。

慈恩寺の前を進み、県道25号の交差点を直進すると、JR日豊本線の踏切があります。踏切を渡って、すぐに左折して線路沿いに進むと、右手が森になっています。その先に鳥居があります。前方後円墳の荒神森古墳(こうじんのもりこふん)に、浮津島神社が鎮座しています。前方部に浮津島神社の社殿があり、本殿裏が後円部の墳丘になります。6世紀中頃、古墳時代後期のものといわれています。

近くに、上ん山(うえんやま)古墳、茶毘志山(ちゃびしやま)古墳といった前方後円墳があります。詳しくは「貫」    • 貫   をご覧ください。

前述したように、下曽根駅前から県道25号を南に行きますと、中曽根新町交差点に出ます。ここで県道に中津街道が合流します。そして家並が続いていた左手の視界が広がります。そのすぐ先の交差点で、市道飛行場南線が県道に合流します。更に県道25号を南に行きますと、貫川に架かる神田橋に出ます。神田橋の手前の上曽根交差点を左折して東に行くと、貫川沿いを曽根干潟に出ます。

曽根干潟につきましては、「曽根干潟」    • 曽根干潟   をご覧ください。

かって曽根海岸は周防灘が深く入り込んでいましたので、古くから大規模に干拓が行われてきました。江戸時代、曽根から朽網の海岸に土手が築かれ、千間土手と呼ばれてました。その上を往還(中津街道)が通って利用されました。この部分の県道25号がほぼ当時の往還と同じコースをたどります。千間土手の東側の海岸が新田開発されました。これが曽根新田です。
 
曽根新田の中央を貫川が西から東に流れ、曽根干潟に流れ込んでいます。集落は貫川沿いにあります。曽根新田は貫川の北と南に広がっています。貫川の南に綿都美(わたつみ)神社が鎮座しています。その境内に新田開発を行った小倉藩家老犬甘兵庫知寛と元大里村庄屋石原宗祐の石碑が立っています。

県道25号上曽根交差点を反対側西に行きます。貫川の先に標高711m貫山がみえます。貫川の左岸を上ります。JR日豊線の踏切を渡り、貫川橋交差点を左折します。貫川橋を渡ると、その先の右手に宗像神社があります。宗像神社は、平安時代後期、筑前宗像神社(宗像大社)を勧請したもので、江戸時代藩主細川忠興に崇敬され、千間土手の鎮護神社でした。

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