圓生・正蔵・歌丸 芝居好きの芝居好きによる芝居好きのための噺【落語】
緩落語ch:荒獅子男乃助 緩落語ch:荒獅子男乃助
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 Published On Oct 3, 2024

0:53 毛氈芝居 27:22 中村仲蔵 56:16 淀五郎

「毛氈芝居」
ある国の殿様、武芸一筋の家風で芝居を見たことがない。殿様は武芸だけでは人心も殺伐として来るだろうと、江戸の猿若町から役者を呼んで家中の者や領内の住民と共に芝居を見ることにした。さて当日は近郷近在から大勢の見物人が押し寄せて大盛況。出し物は「蔦紅葉宇都谷峠」いよいよ文弥殺しの佳境の場となり、伊丹屋十兵衛が文弥を殺し百両奪って懐へ入れようとすると見物席から殿様が目に一杯の涙を浮かべてすっくと立ち上がり「盲人を殺して金を奪うとは不届き千万あやつを召し捕れ」と叫んだ!

「中村仲蔵」
相中から名題になった中村仲蔵についた役は、忠臣蔵五段目の斧定九郎の一役。山崎街道で夜具縞のどてらにたっつけをはいて草鞋姿、山岡頭巾を被って与市兵衛を追っかけて出て来るという山賊の出で立ちだ。元来、名題のやる役ではない。だが芸熱心な仲蔵は家老職のせがれの定九郎を新しい演じ方で垢ぬけた定九郎をと考えるが良い知恵が浮かんでこない・・・

「淀五郎」
初日を前に『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官の役者が急病で出られなくなった。座頭の市川團蔵は、前から見込みがあると目をつけていた若手の澤村淀五郎を抜擢する。淀五郎はここぞと張り切るが、演技が過剰になって上手くいかない。肝心の四段目「判官切腹の場」になると、大星由良助役の團蔵は舞台に出ないで七三で平伏したまま。そんなことが何日]も続き、評判が悪くなる・・・

桂 歌丸
今輔門下から兄弟子4代目桂米丸門下へ移籍したのは芸術協会で勃発した香盤問題や今輔が新作派なのに対し高座で古典落語ばかり演じていたことに端を発して破門状態となり一時落語からはなれていたが三遊亭扇馬(のちの3代目橘ノ圓)の肝いりで米丸門下として落語界に復帰した。「笑点」の初期メンバーで小圓遊との掛け合いはものすごく受けたが「あたしは落語を怠けている」と痛感し落語をちゃんとやることにしたという。歌舞伎は仕草や立振舞などを見て落語に活きるからと、中村吉右衛門出演の歌舞伎をよく観に行っていた。「歌丸」の名は師匠の四代目桂米丸が考案した名で歌丸は当代が初代である。

八代目 林家 正蔵 (彦六)
正蔵の名跡は蛯名家より借りていたもので、いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし自らの死後三平に返上する事にした。しかし1980年三平の急死に伴い正蔵の名跡を海老名家に返上し「彦六」に改名したので俗に「彦六の正蔵」と呼ばれた。他にも居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」とも呼ばれた

六代目 三遊亭 圓生
落語家としてデビューした子供の頃に、他の落語家の高座を盗み聞きするだけで(稽古をつけられなくても)覚えていった噺も多いという。個人の持つ演目数としては、落語史上でも最多だったのではないかと言われている。古典落語・新作落語の別を問わず人気先行で芸を磨く事を怠る芸人を嫌い、草花は綺麗だが1年で枯れるしそればかりでは花壇になってしまう、日本庭園の松の木のようなしっかり磨いた芸を育てなければ、と語っていた。1978年に、日本の江戸落語の団体である落語協会において、当時の会長5代目柳家小さんらが行った真打大量昇進に対して、前会長で最高顧問の6代目三遊亭圓生がこれに反発する形で落語協会を脱退して一門弟子を連れ新団体の落語三遊協会を設立した


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