水巻町
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 Published On Mar 10, 2023

福岡県遠賀郡は岡垣・芦屋・遠賀・水巻町の4町です。今回は水巻町を紹介します。

かって遠賀郡は、現在の北九州市八幡東区・八幡西区・戸畑区・若松区、中間市をも含む広い地域でした。東と西に山地が連なり、中央部に南から遠賀川が流れて北の響灘に流れ込み、その流域に農地が広がっています。遠賀は岡から変化したものといわれています。現在の岡垣町から芦屋町にかけて、岡が続いていたからだといわれています。

古代、郡内に垣崎荘と山鹿荘が成立します。平安末期、山鹿荘は山鹿城(現在芦屋町山鹿)主の山鹿秀遠(やまがひでとお)に支配されますが、平家滅亡により、平家方の山鹿氏も滅亡します。西下した宇都宮氏の一族が山鹿荘を支配し、しだいに勢力を拡大します。その子は麻生氏を名乗り、一族は花尾城(北九州市八幡東区・八幡西区)を本拠に遠賀郡を支配します。麻生氏は一大勢力の大内氏と関係を結びますが、大内氏滅亡後は、北部九州は大友氏と毛利氏の争いとなります。

関ヶ原の戦いの後、黒田氏が筑前国に入ります。遠賀郡は福岡藩の東北部に当たりました。江戸時代、福岡藩は遠賀川の治水につとめ、流域の灌漑、舟運のために堀川を開削しました。遠賀郡でも江戸時代より石炭が採掘されました。石炭は川ひらた(五平太船)で遠賀川・曲川・西川・堀川を通って若松に運ばれました。明治になって鉄道が開通すると、輸送の主役は鉄道に代わっていきました。遠賀川は明治以来戦後まで改修工事が続きました。

八幡市・若松市・戸畑市・中間市が成立すると、遠賀郡は4町になりました。石炭産業は、戦後の復興期まで基幹産業でしたが、昭和30年代石油へのエネルギー転換で、炭鉱閉山が相次ぎ、昭和40年代には炭鉱はなくなってしまいました。現在は北九州市の近郊のため、ベットタウン化が進んでいます。更には福岡市への通勤圏にもなっています。

1889(明治22)年、古賀・猪熊・頃末・杁(えぶり)・立屋敷・下二(しもふた)・吉田・伊佐座・二(ふた)の9村が合併して水巻村になり、1940(昭和15)年、水巻町になりました。

水巻は遠賀川河口部の水が渦巻いた様をいうとされましたが、遠賀郡の旧郡名の御牧郡は、水巻郡とも書いたといわれています。国道3号を西に行きます。遠賀大橋の手前を遠賀川の東岸に下りて行きます。交差点を左折して、東岸の堤防上を通る県道73号直方水巻線を南に行きます。先方、道路の両側に銀杏の木があります。遠賀川が改修される前は、八劔(やつるぎ)神社境内にある保食宮の夫婦銀杏樹でした。八劔神社は堤防上の道路の手前左下にあります。

夫婦銀杏樹の川側に看板が出ています。立屋敷遺跡です。古代、遠賀平野での稲作適地は、遠賀川が土砂を運び形成した沖積土三角州の周辺地域でした。ここから出土した弥生前期の土器は遠賀式土器と呼ばれ、紀元前2世紀には、南は薩南諸島の一部、東は伊勢湾沿岸と丹後半島を結ぶ線まで広がっていました。米は道具との交換が可能でした。それは財産として価値を持っていました。

八劔神社には日本武尊と砧姫命が祀られています。日本武尊が熊襲征伐の途中に立屋敷に泊られた時、砧(きぬた、洗濯の後、布を打って柔らかくし、つやを出すための木の道具)を打つ音がします。訪ねて行くと若い女が打っていました。尊が話を聞くと、都の宮中に仕えていたが、仲間の讒言が嫌になり、この里に暮らしていると涙ながらに話しました。尊は哀れに思い、身近において身のまわりの世話をさせました。熊襲を平定して立屋敷に戻ると、砧姫は身重になっていました。都に帰らなければならない尊は、姫と別れなければなりませんでした。尊は契りの思い出に一本の銀杏を植えました。それが境内にある樹齢1900年の大銀杏樹です。いつの頃か、この樹のこぶを削って煎じて飲めば、乳の出ない母親の乳が出るということで、参詣者が多かったそうです。

山鹿城主の山鹿秀遠や大内・小早川・黒田氏によって八劔神社の社殿は5度造営されました。境内には合祀神社が沢山ありますが、その中に五穀豊穣祈願の保食宮があります。堤防上の夫婦銀杏樹は保食宮の境内にありました。遠賀川の改修により、こちらに移され、八劔神社の境内に合祀されました。江戸時代の1670(寛文10)年、この神のお告げで、立屋敷庄屋蔵富吉右衛門が鯨油を害虫駆除に使いました。これが日本における害虫防除の始まりといわれています。一般的に使われたのは、後の天明・寛政期(1781~1801)になります。

立屋敷遺跡は現在は遠賀川の中になります。こちらの東岸が水巻町立屋敷で、向こう西岸は遠賀町広渡です。下流を見ると、JR九州鹿児島本線の鉄橋で、その奥に国道3号の上下専用の2本の橋が架かっています。遠賀大橋です。

遠賀川東岸から国道3号線に戻り、東に進みますと、前方に歩道橋のある交差点があります。そこを右折し、踏切の手前の左手に水巻駅があります。1891(明治24)年2月、九州鉄道により遠賀川・黒崎間が開業され、同年4月黒崎・門司港間が開業されました。当時、遠賀川・黒崎間の駅は折尾駅だけでしたが、遠賀川・折尾間に、1961(昭和36)年水巻駅ができました。踏切の手前が北口、踏切の先が南口で、構内は地下通路で連絡されています。

国道3号線を南に来た水巻駅前交差点を北に行きます。突き当りの通りの1本手前を右に行きますと水巻町役場があります。その北隣が水巻町中央公民館です。その横を通り、突き当りの通りを右折します。そのまま直進しますと突き当りの頃末小学校前交差点に出ます。そこを右折し、高架の国道3号線下の交差点を直進し、県道203号線中間水巻線を南下します。JR鹿児島本線のガードをくぐり、吉田グランド前交差点を通り過ぎます。次の吉田小学校入口交差点を左折し、すぐ先の橋の手前を川沿いに進みます。道は広くありません。川は堀川で、先に行くと、対岸に河守(かわもり)神社があります。

遠賀川流域で、土地が低いため雨が降るとすぐに洪水を起こしました。憂慮した福岡藩主黒田長政は、堀川を開削し、遠賀川を分流して洞海湾に流すことを計画し、1621(元和7)年着工しました。しかし、長政が病没したため工事は中止となりました。1623(元和9)年以来中断されていた堀川開削の工事が、1751(宝暦元)年再開されました。神社の先にある車返しの切り通しの難工事を突破して、1762(宝暦12)年堀川は完成しました。河守神社には大山祇神のほか、再工事を始めた藩主黒田継高が祀られています。

神社の前を先に進み、車返しの切り通しがあります。岩盤に残された当時のノミ跡を見ることができます。堀川の完成により、遠賀川の水害は緩和され、流域には灌漑用水が供給されました。それと同時に、年貢や荷物輸送の舟運が便利になり、筑豊の石炭が運ばれました。川ひらた(五平太船)による若松までの石炭輸送は、明治になってますます盛んになりました。筑豊の石炭輸送を目的に、1891(明治24)年8月直方-若松間の鉄道が開通しました。そのため石炭輸送の主役は鉄道に奪われていきました。

堀川についての詳細は、「堀川」    • 堀川   をご覧ください。

吉田小学校入口交差点から、県道203号を国道3号線下の交差点まで戻り、そのまま直進して北に進みます。県道203号中間水巻線は県道202号水巻芦屋線に変わります。坂を上った所に信号がある交差点があり、そこを左折すると、更に右折して図書館・歴史資料館への道が伸びています。左手は総合運動公園になっています。坂道を上ると、水巻町図書館・歴史資料館があります。

図書館・歴史資料館の背後の坂を上り、その先の曲がり角をそのまま進むと墓地があり、その一番高い所に十字架の塔があります。墓地へは県道202号から徒歩で昇ってくることができます。太平洋戦争中、捕虜になった外国人が連れて来られて、炭鉱などで働かされました。水巻町にも4回にわたって、アメリカ人70人、イギリス人250人、オランダ人800人がこの近くの収容所に送られて来ました。坑内の労働が厳しいため病気で倒れたり、耐えかねて脱走して処罰されたりして、多くの人がこの地で亡くなりました。終戦になって、捕虜を監督していた日本炭礦は遺体処理に困り、連合国の戦犯調査委員が到着する前に慌ててこの塔をつくりました。

炭鉱も閉山して、戦争の記憶も薄れていた1985(昭和60)年、水巻に収容されていたオランダ人が訪ねて来ました。水巻町はこれを機に、不幸な戦争を繰り返さないように平和を願って、十字架の塔を伝えていくことになりました。その後十字架の塔を横に拡張して、水巻で亡くなったオランダ兵53名の他に、日本各地で亡くなったオランダ兵818人名が銅板に銘記されました。2000(平成12)年にはオランダでつくった871名の銘板に取り替えられました。

水巻では江戸時代から石炭は発見され、明治後期、三好徳松が炭鉱を経営しました。三好徳松が死去すると、1934(昭和9)年鮎川義介の日本鉱業に売却され、日本炭礦が設立されました。日炭高松炭鉱は水巻町の全域、隣接する北から若松市(現在北九州市若松区)、八幡市(八幡西区)、中間町(中間市)に広がっていました。かって、日炭関係者とその家族で町の人口の約8割を占めていたというように、水巻町の近代化は石炭産業に負うところが大でした。

1952(昭和27)年、日炭株の買い占めがあり、オーナーが鮎川義介から茨城県の高萩炭鉱に代わりました。1953(昭和28)年、若松の二島まで坑道が開削されました。その後二島鉱と各鉱が坑道でつながり、二島鉱から揚炭し、洞海湾の二島から積み出されました。しかし、エネルギー革命の進行により、高松二鉱は1965(昭和40)年採炭中止になり、1971(昭和46)年の若松鉱業所の閉山で、日本炭礦は閉山となりました。

上の駐車場から山手に登って行きます。すぐに広場に出ます。炭鉱があった頃、ここは二鉱山ノ神(大山祇神社)の社殿がありました。現在はなくなり、多賀山自然公園として整備されています。右手に「殉職者招魂碑」が立っています。裏面に昭和12年建立、日本化学工業株式会社遠賀礦業所になっています。左手には「鉱業報国碑」があり、建立は1年後です。その横に大山祇神社の鳥居が解体されて横たえられています。その建立年・者は招魂碑と同じです。1937(昭和12)年、日本炭礦は一時日本化学工業と改称されました。これらはその年に建立されています。

図書館・歴史資料館から坂を下って、総合運動公園との間の道を西に下って行くと、曲川に架かった橋を渡り、遠賀川東岸の県道73号に出ます。そこを右折して下流に向かいますと、先方に御牧大橋が見えます。河川敷にコスモスが植えられ、秋になると一面花が咲きます。道路の反対側、猪熊1丁目のみどりんぱぁーくで水巻町コスモスまつりがあります。

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