【戦争遺跡】瀬戸内海に浮かぶ無人島 ウサギの楽園 大久野島
一惺堂 正行 / Masayuki Isseido 一惺堂 正行 / Masayuki Isseido
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 Published On Jul 1, 2024

今回は戦時中に毒ガス兵器が作られていた広島県竹原市の大久野島をご紹介したいと思います。
大久野島は瀬戸内海芸予諸島の一つで、「ウサギの島」や「毒ガスの島」として知られています。
昭和初期には大日本帝国陸軍の化学兵器製造拠点として毒ガスの製造が行われ、戦争中は秘密の島として地図からも消されていました。
周囲4キロの島には今も発電場や毒ガス貯蔵庫の跡などが残り、当時の面影を残す戦争遺跡が残されています。

大久野島の発電所跡はこの島の最大規模の戦争遺構で、昭和4年から化学兵器(毒ガス)製造工場の稼働に合わせて建設されました。
発電所には重油を燃料とする8基のディーゼル発電機が設置されており、これらの発電機は島内の電力を供給し毒ガス製造を支えていました。
現在は建物の老朽化が進み、倒壊の危険があるため建物内部への立入りは禁止されていますが建物外部からの見学は可能です。
大久野島で製造された主要な毒ガスは五種類です。
イペリット、ルイサイト、ジフェニール・シアンアルシン、クロールアセトフェノン、青酸ガスであり、これらの毒ガスは人体に対して非常に有害で戦争中に多くの人々に深刻な影響を及ぼしました。
大久野島での毒ガス製造は、昭和4年(1929年)から昭和20年(1945年)まで続けられ、その間に合計で約6616トンの毒ガスが製造されました。
これは何千万人もの人間を殺戮できる量でした。
大久野島の毒ガス製造の歴史は、戦後の1984年まで日本ではほとんど知られていませんでしたが、現在ではこの歴史は広く認識されており反省と平和への教訓として伝えられています。



また、戦争末期にはここで風船爆弾が製造され、アメリカ本土に向けて放たれました。
大久野島では、毒ガス製造の他にも「風船爆弾」の製造が行われていました。
風船爆弾は和紙で作られた直径約10メートルの気球に爆弾を吊り下げたもので、1944年から秘密裏に製造が始まりました。
この風船爆弾は「ふ号作戦」の一環として使用され、アメリカ本土に向けて放たれました。
風船爆弾は、日本からアメリカ本土に到達することが可能な数少ない兵器の一つでした。
これはジェット気流を利用して大西洋を越えることができたからです。

また島内には明治時代に築かれた芸予要塞の北部砲台、中部砲台、南部砲台の跡が残されています。
北部砲台跡は島の北部に位置しており、ここには12cm速射加農砲(カノン砲)が2門が2ヶ所、24cm加農砲(カノン砲)が1門が4ヶ所に配されていました。
中部砲台跡は大久野島山頂展望台近くの高台にあり、ここには28cm榴弾砲が2門が3ヶ所に配されていました。
南部砲台跡は島の南部、第二桟橋近くの高台にあり、24cm加農砲(カノン砲)4門と9cm加農砲(カノン砲)4門が備えられていました。
これらの砲台は、日清戦争後の広島と呉の軍事拠点を守備するための瀬戸内海防備の一部として築かれました。
その後、射程距離が伸び、大正13年〜大正15年に豊予要塞が築かれたことで海峡守備の役割を終え大正13年12月に廃止されました。

このように悲しい歴史を歩んできたわけですが現在の大久野島は観光地としても知られており、特にウサギが多く生息していることから「ウサギの島」とも呼ばれています。
また、島内には団体旅行客にも対応した宿泊施設「休暇村大久野島」があり、修学旅行や平和学習の場としても多くの学生に利用されています。

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