【お城紹介】「丸岡城」最古ではなかった!旧型天守が建てられた理由とは?
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 Published On Aug 27, 2021

丸岡城は1576(天正4)年頃、柴田勝家の養子、勝豊により北ノ庄城の支城として築かれました。江戸時代になって徳川家康の次男結城秀康が越前福井城に入ると、本多成重(ほんだなりしげ)が福井藩の付家老として丸岡城主となります。成重は秀康が豊臣秀吉の養子となった際、一緒に大坂へ同行していたことがあり、越前家とは昔からのつきあいがあります。成重は秀康の死後も家老を務めますが、二代目忠直が失脚したことで福井藩から離れ、丸岡藩として独立することになります。
現在の丸岡城天守は1576年ごろ柴田氏の時代に造られたものと考えられていました。丸岡城天守は望楼型(ぼうろうがた)。大きな屋根がある建物の上に物見櫓を載せたような形で、これは古い天守の特徴とされています。当時の技術では天守台をきちんと四角に作ることは難しかったのですが、望楼型なら一階がゆがんだ形をしていても上で建物の形を整えることができます。大きな「入母屋破風」があるのが特徴で、堂々としたデザインになります。ところが最古という割にはおかしな点もいくつかありました。江戸時代初期(1613年)の丸岡城絵図には天守の姿が描かれていないものがあるそうです。また、丸岡城天守外観は「望楼型」なのですが中の骨組みを見てみると新しい「層塔型」の特徴がみられるとのこと。坂井市教育委員会は「丸岡城調査研究委員会」を発足。平成27年〜平成30年に丸岡城天守の調査を行いました。その結果、天守の柱や梁(はり)などの部材は、1620年代のモノであるらしいことが判明。丸岡城天守が建てられたのは、戦国時代ではなく平和な江戸時代に入ってからということがわかったのです。
「丸岡城天守は江戸時代に建てられたもの。」この調査によって「現存最古の天守」は丸岡城ではなく、松本城乾小天守か姫路城、または犬山城(1階の柱が1585年のもの)あたりということになりました。しかしこのことによって丸岡城の価値が落ちたのではなく新たな謎が出てくることに。というのも、丸岡城天守が江戸時代に造られたとしたら、それは大変レアなケースだったのかもしれないのです。

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