菅野由弘:聲明「球形の悔過'92」きつねのざんげ Yoshihiro Kanno:Shomyo:Kitsune no zannge
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 Published On Sep 28, 2024

菅野由弘:聲明「球形の悔過'92」
安野光雅著「きつねのざんげ」より
                                  長崎、諫早湾の干潟が堤防によって閉め切られて二年になる。干拓事業の名のもとに、
干潟に住んでいた多くの生き物たちが殺された。また、渡り鳥も7割以上が姿を見せなく
なったという。干拓の是非は私には解らない。が、国家事業のためには、動物の命などは
ものの数ではない。それはそうだ。国家のためには人間の命さえものの数ではないのだか
ら。そうしたことを推進した人たちは殺戮者であることに気がつかないふりをしている。
干拓だって戦争だって単なる「プロジェクト」だ。
 

  昨年、多国籍軍によるイラクの空爆が行われた。イラク市民に「多数の死傷者」が出た
そうだ。実は、この「球形の悔過」の初演の前年にも、湾岸戦争があった。偶然とは言
え、二度までも戦争の次の年に演奏される私の「悔過」、何かの因縁だろうか。多国籍軍
とは、便利な言葉だ。全ての関係者は、「私が手を下したのではない」と思っている。そ
して、「多数の死傷者」は勿論自分の身内ではないから関係ない。こうした今、日本の自
衛隊による米軍への後方支援の是非が議論されている。戦闘に参加する、つまり直接手を
下せば憲法違反だが、後ろで支援するのは可能だ、という論理だ。例えば後方支援として
の武器弾薬の輸送はかまわない。輸送は単に運ぶだけであって、それが戦闘に使われるか
どうかは解らない、というわけだ。武器も積み重ねれば踏み台の代わりになる?弾薬はア
クセサリーにでも使うのだろうか。どちらにせよ、向こう側では「多数の死傷者」が出
る。人を殺すと、多くの場合は犯罪になるのだが、時たま正義になることもある。「正し
い人の殺し方」が存在するわけだ。動物には、少なくとも動物愛護団体なるものがある
が、人間愛護団体というのは聞いたことがない。正義の戦いによって殺された人間たちに
浮かぶ瀬は無い。
 

  人間はいくら懺悔してもしきれないくらいの業を背負っている。牛革の靴を履き、ビー
フ・ステーキをおいしそうに食べながら、鯨の保護を論議している動物愛護団体の人々を
批判しつつ、私も昼食にチキンを食べる。偽善者以外の何者でもない。が、偽善と知りつ
つも、祈らずにはいられなかった人間の姿が「悔過」という典礼儀式の中に見て取れる。
精一杯の良心の祈りだ。誰にも良心はあると思う、ひとかけらくらいは。私にも。
 

 悔過をテーマとした声明作品の依頼を、国立劇場のプロデューサー、茂木さんから受け
たのが一九九二年の暑い夏、ちょうど湾岸戦争の次の年。テキストについて様々な話し合
いを続けるうち、参考までに、と送られてきたのが安野光雅氏の「きつねのざんげ」。あ
の優しい絵を描く安野さんがどんな気持ちで「私は強くなる 森中で 一番の 偽善者に
なることを ハナと約束したのです。偽善者が誓うなんておかしいね と 二人で顔を見
合わせたとき---」という言葉を書いたのかは解らないが、妙に惹かれるものがあった。
91年の湾岸戦争の時話題になっていた「油まみれになった鵜」を助けようという、それ
こそ偽善を絵に描いたような話と、この「きつね」が私の中で重なり、「球形の悔過」を
作曲しようと思った。「球形の」はもちろん地球のつもりである。かく言う私だって、毎
日一生懸命生きることによって、少しずつ地球環境を破壊している一人だ。私自身の小さ
な偽善、祈りの意味を込めて、悔過法要に範をとりつつ作曲し、その年の秋に初演され
た。本当に小さな主張、音楽は直接何かを伝えるのが不得手な媒体だと痛感しながらの、
小さな偽善だった。
 

  それから七年たった今年、一九九九年、世紀末、一九〇〇年代最後の年に、新たな世紀
末改訂版を作ることになった。不景気、何とはなしの不安が渦巻き、全体が落ち込んでい
る年に、ふたたび、小さな偽善の祈りを捧げるべく、改訂する。今回の改訂にあたって
は、まず、法要のスタイルをはずし、物語を中心に構成し直した。声明の声がもつ音楽
的、音響的魅力は、もはや典礼音楽のスタイルを必要としないように思われる(お坊さん
にとって、もしかしたら大変不本意かもしれないが---)。 そして、音楽表現としての
「小さな祈りの姿」を浮かび上がらせることに重点を移した構成にしたつもりである。き
つねが月に祈る、狼が月に吠えるように、本当にきつねが祈るかどうかは定かではない。
が、うさぎが餅をついている月に、きつねが小さな祈りを捧げる図は、絵に描いたように
しっくり来る。きつねは祈り続ける。月が消え、太陽が照りつけてもなお祈り続け、やが
て太陽も沈み始める。真っ赤な夕日の中に立ちつくすきつね。そしてふたたび月がめぐっ
てくる。
 

  既に、人類は月面に降り立った。しかし考えてみれば、実際に月面に降りたのはたった
の二人だ。ここで言う人類とは、二人のアメリカ人を指す。膨大なスタッフと、莫大なお
金をつぎ込んで、人間の夢を実現したまさに偉業だ。こんな素敵なことができる人間は、
あながち棄てたものではない、などと思ってしまう。夢に乾杯しつつ、月に祈りたくな
る。私も、きつねと一緒に立ちつくして祈り、考えなければならないことが山ほどある。
そうこうしている内に、月が消え、太陽が照りつけ、やがて太陽も沈み始める。真っ赤な
夕日の中に立ちつくす。そしてふたたび月がめぐってくる。月の上ではうさぎが餅をつい
ている。その耳のあたりを、ちょこちょこ歩き回った人間がいるらしい。
 

  お月さま どうか私めが 明日から生くべき道を お教え下さい。

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